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リー女史はイギリスのカンタベリーに生まれた。家系は名門でうっそうとした森に囲まれた大邸宅に住み、一族と使用人合わせて200人に達していた。幼少の頃から母より信仰教育を受け、熱心なキリスト教信者であった。
1908(明治41)年、51歳の身で単身日本に渡った。そして日本聖公会に属し、東京、横浜、沼津などを布教した。その間、熊本の回春病院のリデルの経営事業や好善社経営の目黒慰廃園などのらい患者施設を見学した。1916(大正5)年4月20日、リー女史は59歳の身をもって、自分の生涯をらい患者と共にする決意で、日本語教師井上和子と草津へ行った。
湯之沢の入り口に草津町伝道所「平和館」を建て、二人の住居とした。そして世界が第一次大戦にわきかえっている時、湯の沢に聖バルナバ医院を中心に18ホーム、1教会、1小学校、1保育所を開設し、患者とその家族の救済、特に患者子弟の養育につくすのであった。もちろん、私財だけでは足りず、彼女は戸毎、軒毎たどたどしい日本語で洋服地を売って歩き、物乞いと間違えられたこともあった。また、リー女史は患者だからといってその結婚に反対したわけではなく、ただ両性の合意による正式の結婚をすすめた、といわれている。
昭和8年、喜寿の祝いを受けた後、静養と財産処理のため帰国した。
1935(昭和10)年帰草したがその秋から老衰により明石のミス・シメオンのもとで静養生活に入った。健康は一進一退であったが、昭和16年12月18日、84歳で昇天した。勲六等瑞宝章が贈られた。
現在、草津の頌徳公園内には女史の功績をたたえた碑
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