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ハンセン病の歴史と年表 その3

1939(昭14)年 
bullet国立療養所東北新生園設立。園長、鈴木立春(9月16日)。
bullet満州国立同康院を鉄山領県に設立。院長、難波政士(11月)。
1940(昭15)年 
bullet本妙寺らい部落が熊本警察によって解散させられ、3日間にわたって患者の刈り込みを強行、157名を各療養所に分散収容する(7月9、10、11日)。
1941(昭16)年 
bullet回春病院、経営困難から解散。入院患者58名は九州療養所に収容(2月3日)。病院の一部は「未感染児童収容施設“竜田寮”」に転用される。
bullet聖バルナバ医院、経営困難のため解散。入院患者のうち44名、栗生楽泉園に収容される(4月)。
bullet草津湯の沢部落、楽泉園への移転に伴い解散式を挙行し、17年中の全員移住を決定(5月18日)。当時182世帯、574名が残っていた。
bullet全生病院で洗濯場主任の山井道太が草津重監房送りとなった、「洗濯場事件」起こる(6月6日)。
bullet公立6療養所が国立に移管される(7月1日)。
bullet太平洋戦争勃発(12月8日)。
1942(昭17)年 
bullet目黒慰廃園、経営困難のため閉鎖。入園者55名は全生園へ収容(8月5日)。
1943(昭18)年 
bullet奄美和光園、奄美大島有屋に設立。園長、保田耕(4月5日)。しかし、医療も設備も最低で、谷川の水をせきとめて飲み水とし、各自が煮炊きしての生活であった。
bullet国立らい療養所々長会議。厚生省に於て、大東亜のらい対策が協議され(6月28日、29日)、陸、海軍、大東亜、厚生各省大臣に「大東亜らい対策の実行」についての意見書を提出する(7月14日)。
bullet奄美和光園長、保田耕応召戦死(9月)。
bulletアメリカでファヂニー、プロミンの治らい効果を発表。
1944(昭19)年 
bullet沖縄で日戸軍医中尉指揮による患者の強制収容が行われる。日本刀や銃剣で威嚇して有無をいわさずトラックに詰め込み、野良仕事中の者でも着の身着のまま連行し、愛楽園は収容定員の450名の2倍を超える913名に膨れあがった(5月18日から9月21日)。
bullet宮古島でも日本軍により前年7月頃からこの年の中頃まで在宅患者の強制収容が行われ、剣つき鉄砲でこずいたり、拳銃を突き付けながら立ち退き命令書を読み上げ、南静園に押し込む。
bullet愛楽園では空襲で主要な建物を失い炊事は露天となる(10月10日)。
bullet傷痍軍人療養所として駿河療養所設立。所長高島重孝(12月15日)。
bullet第十六回日本癩学会、紙上学会となる。
1945(昭20)年 
bullet南静園で軍による強制収容と同時に監禁されていた人が一服の薬も与えられず、空襲の際に脱獄したことを理由に最後は床なしの独房に入れられ、11カ月目に獄死した(2月15日)。
bullet和光園では空襲が激しく、食糧が逼迫し、多くの患者が離散した(3月)。
bullet奄美では重症者が近くの山の横穴式退避壕で起居していた(4月)。
bullet愛楽園では1月1日、2月22日、3月1日、同10日、23日と空襲と爆撃が相次ぎ、4月に入って患者地帯に大型爆弾が14個も落とされ、早田園長は自由行動を許可、多数の患者が園外に散っていった。
bullet南静園では空襲が激しくなると多田園長をはじめ全職員、職場を放棄して雲隠れする。施設は壊滅状態となり、入園者は海岸付近の壕に非難、逃亡者も続出。疲労や栄養失調や病状の悪化、空襲などで死者110人、園に踏み止まった者116人であった。
bullet全生園で畑の馬鈴薯を盗んだ容疑で監房へ入れられ、林某が首つり自殺した(6月16日)。
1945(昭20)年 
bullet敗戦をもって終戦(8月15日)。
bullet奄美、沖縄、宮古三園が米軍政下におかれる(8月)。
1946(昭21)年 
bullet癩予防協会所属の各療養所の保育所が国に移管される(4月)。
bullet東大薬学教室、石館守三教授、プロミン合成に成功(4月)。
bullet衆議院議員補欠選挙で入所患者がはじめて選挙権を行使する(6月24日)。
1947(昭22)年 
bullet各療養所に前後してララ物資が贈られてくる(2月7日、邑久)。
bullet作業賃が予算化され、働けば働くほど食糧費や施設整備費を食らタコ足制度に終止符を打った(4月1日)。
bullet六・三・三制実施に伴い、各療養所に中学校設置(4月1日)。
bullet楽泉園で「特別病室」糾弾闘争起こる(8月15日)。
bullet患者大会が何回も開かれ、草津町湯畑で「伏魔殿栗生楽泉園真相発表会」が開かれたり(30日)、重監房で何十人も死なせた人権蹂躪や職員の不正を告訴(31日)、厚生省および国会から調査団が派遣され(9月18日、21日)、古見園長休職(10月11日)ほかの処分となった。この間、全生園では楽泉園から派遣された2名の代表を迎え、患者大会を開いて支援、共闘した(9月9日)。
1948(昭23)年 
bullet療養慰安金が予算化される。1人月額150円(4月1日)。
bullet第二十一回日本癩学会で国産プロミンの効果が次々発表された(10月8日)。
bullet全生園の患者自治会がプロミン獲得促進委員会を結成。関係方面への働きかけをはじめた(10月28日)。
1949(昭24)年   
bullet厚生省要求のプロミン予算が大幅に削られそうになる。全生園は騒然となり、ハンストに入る者が相次ぐ(2月24日)。
bullet楽泉園で140名がハンストに入る(2月28日)。
bulletプロミン予算5000万円(要求は6000万)組まれる(4月1日)。
bullet南静園でははじめて寮舎に自家発電により電灯がともる(5月20日)。
1950(昭25)年 
bullet奄美で集団軽快退所者7人が社会復帰(1月10日)。
bullet全国らい患者一斉調査。患者数1万2626、入所者1万0100(8月)。
1951(昭26)年 
bullet山梨県下に「らい家族一家九人心中事件」起こる(1月29日)。
bullet全生園で全らい患協(現全患協)発会式(2月10日)。
bullet皇太后陛下崩御。御齢66歳。「貞明皇后」と追謚(5月17日)。
bullet恵楓園で「世界一のらいセンター」ヘ1000床の拡張工事が進められ、完成(6月10日)。同時に隣接地で反対を押し切って医療刑務所の建設が進められる(完成28年3月、定員75)。
bullet熊本県で「藤本事件」起こる(8月1日)。
bullet長島愛生園長光田健輔、文化勲章を受ける(11月3日)。
bullet参院厚生委員会「社会保障制度調査に関する件」のうち「らいに関する件」で林全生園長、光田愛生園長、宮崎恵楓園長等が参考人として証言する(11月8日)。いわゆる「三園長の証言」として大問題となる。
1952(昭27)年 
bullet従来の看護婦養成機関を改組し、全生、青松、愛生、恵楓の各園に准看護学院が付設される(4月1日)。
bullet全生園で園券の廃止に当たり、保管金に不足のあることが判明。職員の不正糾明患者大会が開かれた(4月23日)。
 

財団法人・社会福祉法人 藤楓協会さんの資料を引用させて頂きました。

 

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