| 日本武尊 |
| 伝説上の英雄・やまとたけるのみこと〜生没年不詳 |
| 伝・大和時代東征の折 |
| 「古事記」「日本書紀」で活躍する伝説の英雄。「古事記」では倭建命と表記される。モデルになったのは1人ではなく、複数の人物だったという説もあるが、いずれにしろ東国にはゆかりの伝説が多い。景行天皇の皇子で、食事に出てこなくなった双子の兄を輸すように言われたが、殺してしまう。乱暴を恐れた天皇に、九州に熊曹建兄弟の討伐に命じられ、その地で日本武尊の名を得た。九州から帰ると東国の征伐に出かけ、帰途には足柄の坂で、「吾嬬者耶」と言って亡き妻を偲んだ。それが東国を「吾妻」と呼ぶ起源になった。最後は伊吹山の神の毒気にあたり、三重の能褒野で息絶えた。 |
日本武尊が草津を訪れたのは、東国征伐の帰途だと伝えられています。草津周辺の山々や里を歩くうちに、谷間にもうもうと立ち上る湯煙を見つけました。日本武尊は湯気の上がる傍らの石に腰を下ろし、湯につかったと言われ、この逸話が日本武尊の草津開湯伝説になっています。座った石は後に御座石と名付けられました。
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| 源 頼朝 |
征夷大将軍(鎌倉幕府創立者)・みなもとの よりとも〜1147年-1199年 |
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建久4年/1193年
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日本の歴史上初めて幕府を開いた武将。平治元(1159)年、13歳で平治の乱に参加、武勲をたて官位を得たが、後に敗れて捕らえられ、伊豆に流された。その後20年間は伊豆で流人として過ごしたが、治承4(1180)年5月の以仁王事件の際、身の危険を感じ機先を制して平家に対し挙兵した。石橋山の戦いに敗れ安房国に逃亡したが、後に戦況が好転し武士を統率、9月には鎌倉に入り、10月富士川の戦いで平家を破った。以後、東国に一大勢力を築き、文治元(1185)年に壇ノ浦で平家を滅亡させ、同5(1189)年には奥州藤原氏を征服して、全国統一を果たした。鎌倉幕府の運営にあたっては、朝廷との微妙な力関係に才覚を示した。
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草津の開湯伝説の一つに、源頼朝に関するものがあります。建久4(1193)年に浅間山の麓で、四方を取り囲んで獲物を追い込む巻き狩りを行ったとき、草津にも足をのばし、湯を発見したと伝えられています。この話は、すでに江戸時代の三原野狩関係の記事に記載されています。
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| 木曾義仲 |
武将・きそ よしなか〜1154年-1184年 |
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久寿2年/1155年
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平安時代末期の武将。源為義の子、義賢の次男。久寿2年、上野、北武蔵を治めていた義賢は、源氏一族の内紛から武蔵国大蔵館(埼玉県嵐山町)で討たれたが、義仲は難を逃れ、信濃国木曾で成長した。治承4(1180)年9月、頼朝にわずかに遅れて挙兵し、平家方の小笠原頼直を越後に追い払って信濃を治めた。翌年には横田川原(長野市)で越後の城氏を、越前水津(敦賀市)では平家の追討軍を破って、北陸道をほぼ手中にし、西海の平家、東海の頼朝とともに「天下三分の形勢」と称された。しかし入京すると後白河法皇と対立し、頼朝の命を受けた源義経・範頼軍との決戦に敗れ、逃走の途中、栗津(大津市)で戦死した。
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草津近辺には木曾義仲にまつわる伝説が二つ残っています。一つは義仲が木曾で育ったのではなく、六合村(草津温泉隣接)で成長したというもの。六合には世立という集落がありますが、その名は義仲がここから世に立ったためと言われています。もう一つの伝承は、草津と六合を中心に義仲の残党が移り住んだという落人伝説です。
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| 長尾為景 |
大名・ながお ためがけ〜生没年不詳 |
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延徳2年/1490年
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戦国時代の武将で、影虎(上杉謙信)の父。永正3(1506)年に越後の守護代になり、翌年には主君の守護上杉房能を滅ぼしたが、自ら守護に就かず従兄弟の上杉定実を擁立して、実権を握る。同6(1509)年に房能の実兄顕定に攻められて逃亡するが、翌年には再起して顕定を破り、完全に国政を手中にした。その後は室町幕府との親交を図りながらも、定実の守護は廃位せず自ら守護代のまま、事実上の国主として戦国大名への道を進んだ。上条氏や阿賀北の国人、上田長尾氏による何度かの反為景の動きもあったが、辛うじて封じ込めた後、子の晴景に地位を譲って、隠居生活に入った。
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越後の戦国大名、長尾為景が草津を訪れたのは、延徳2年(1490)年のことです。たまたま湯治にきていた大光宗猷禅師という高僧に出会い、大いに感化を受けたと言われています。為景に同席した箕輪城主の長野業尚にいたっては、榛名山麓に長年寺を開き、禅師を開山として招いたほどでした。
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| 巴 御前 |
女武者(木曾義仲の従者)・ともえ ごぜん〜生没年不詳 |
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元暦元年/1184年
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武勇優れた平安末期の美女。木曾(源)義仲の乳母の夫で、中原兼遠(木曾の豪族)の娘。義仲の従者で愛妾ともされている。治承4(1180)年に義仲の挙兵に従って、越中国(富山県)礪波山の戦などを経て入京する。元暦元(1184)年1月、近江栗津の戦では敵の首をねじ捨てるという大活躍を遂げたが、死を覚悟した義仲の命令で戦場を離れた。中世前期は武家の女性の地位は高く、巴御前は「大力は女性の血筋で伝えられるという信仰」をもとに造形化された女性。彼女の人生の後半は謎につつまれており、「源平盛衰記」では、巴がのちに和田義盛の妻となり、朝比奈義秀を生み、越中石黒で出家して死んだという伝説を残している。
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元暦元(1184)年、義仲は栗津の戦で31際の生涯を閉じました。巴は義仲軍の残党と共に山奥へ逃れ、白根山麓にある湯の池のほとりまでとたどりつきました。3月半ばを過ぎた白根の麓。爽やかな高原の風光は、最愛の義仲の死に傷つき、悲しみにくえる巴の心をやさしく包み癒した、と伝えています。
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| 丹羽長秀 |
大名・にわ ながひで〜1535-1585年 |
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天正10年/1582年
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安土桃山時代の武将。尾張国生まれと伝えられ、父の死後、織田信長に仕え、信長の養女と結婚した。元亀2(1571)年、近江国の佐和山城を落とした攻から同城主となり、元正元(1573)年には、信長の命により琵琶湖に大型船を造営した。信長が目指した天下統一の戦にはほとんど参加し各地を転々とした。豊臣秀吉らと明智光秀を討った後、清州会議で若狭国他を領することになり、坂本城(大津市)に移って織田家を支えた。賤ヶ岳の戦では豊臣方につき、戦攻によって越前国と加賀国の半分を与えられたので、北庄(福井市)に移った。その2年後、同地で没した。
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本能寺の変が起こる数ヶ月前の、天正10(1582)年の3月、長秀は草津を訪れたと言われております。甲州の天目山の戦で武田勝頼を破った後、堀秀政、多賀新左右衛門らとともに草津へ向かい、出湯につかって戦の労を癒したとのことです。
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| 堀秀政 |
大名・ほり ひでまさ〜1553-1590年 |
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天正10年/1582年
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安土桃山時代の武将。はじめは美濃国の斉藤道三、後に織田信長に仕えた。天正元(1573)年に越前で起きた一向一揆の平定をはじめ数々の戦に参加、朱印状の発給に際しては書状を添えるなど、信長の側近として活躍した。同9(1581)年には近江国の長浜城の城主となり、本能寺の変で信長が自害した後は、豊臣秀吉の先鋒として山崎の戦に参加した。つづいて賤ヶ岳、小牧・長久手などの戦を経て、同13(1585)年には丹羽長秀の後を受けて越前国の北庄に移った。小田原攻めの陣中で病死した。
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信長、秀吉と天下人に仕えた秀政が、草津の湯を楽しんだのは天正10(1582)年の3月だと伝えられています。甲州・天目山の戦の後、織田家に仕えた丹羽長秀、多賀新左右衛門とともに訪れ、しばし休養した」という史実が、「将軍家譜」という書物に残されています。
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| 朝日姫 |
徳川家康正室・あさひひめ〜1543-1590年 |
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天正15年/1587年
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豊臣秀吉の異父妹。朝日方、駿河御前とも呼ばれる。天正12(1584)年、小牧・長久手の戦の後、秀吉は上洛要請に応じない徳川家康に、当時、佐治日向守に嫁いでいた妹、朝日姫を妻として送った。佐治は天下のためと命令に従ったが、代償は受け取らずに自害(あるいは隠居、定かでない)した。朝日姫の後も秀吉は家康に人質を送ったため、ついに家康は上洛。秀吉の臣下となった。朝日姫は政略結婚の犠牲になった人物の代表として、後世に語り継がれている。
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豊臣一族でもっとも早く草津を赴いたのは、秀吉の異父妹、朝日姫です。訪問時は、すでに家康の正室となっていました。草津に赴いた3年後の天正18(1590)年には、聚楽第で亡くなり、そのことから遊山ではなく湯治のたむに訪れたもの、と推測できます。
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| 近衛龍山 |
公家・このえりゅうざん〜1536-1612年 |
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天正15年/1587年
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安土桃山時代の公家。戦国時代の公卿の名門、近衛家の出身で、右大臣、左大臣、関白等を歴任した。永禄3(1560)年、京都の乱れを憤り、上杉謙信を頼りに越後へ向かったが、謙信の上洛に失敗。京に帰った。同11(1568)年になると将軍足利義昭との間に軋轢が生じ、大阪や丹羽を流浪した。天正3(1575)年にはいったん帰洛するが、島津義久を頼って薩摩へ向かった。薩摩に滞在し、再び京へ戻り、今度は織田信長の勅使を務めた。本能寺の変で信長が自害すると、難を逃れるために出家。乱世の中で流転の人生を送ったが、書や和歌に才覚を発揮し、当代一流の教養人であった。
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天正15(1587)年3月に来草した龍山は、その時の感動を10首の和歌に残しました。それぞれの和歌は、最初の1文字に「南無薬師十二神」の名号を据え十首目に「むすふてこの谷かけの出湯こそ、むへも老いせぬくすり成けり」と温泉薬師を讃えています。この最後の一首からも、草津温泉が戦国期、不老長寿の湯として広まっていたことがわかります。巻物は、草津山光泉寺に所蔵。
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| 豊臣秀次 |
大名・とよとみ ひでつぐ〜1568-1595年 |
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天正16年/1588年
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豊臣秀吉の甥。天正12(1584)年、小牧・長久手の戦では指揮に失敗。味方に多数の死者を出し、秀吉に叱責された。その後、四国や中国の遠征、秀吉とともに出陣した九州征伐では戦功著しく、大納言・豊臣秀長、嫡男の鶴松が没すると、秀吉の養子に。関白職を譲られて豊臣家の相続も約束された。しかし実権は秀吉が握ったままで、文禄2(1593)年、嫡男・秀頼の誕生に、動揺。ついには乱行の果てに謀叛を企てたと噂されて、切腹に追い込まれた。養子、側室30数人も京都の三条河原で斬られ、悲劇の人生の幕を閉じた。
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秀次が草津を訪れたのは、天正16(1588)年の九州征伐の翌年です。秀次の来草を聞きつけた小諸城址の依田康国が、わざわざ小諸から草津に出向き、特設の茶店を設けて秀次を接待しました。この史実は、康国の事暦を記した「寛政重修諸家譜」という文書に伝えられています。
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| 大谷吉継 |
大名・おおたに よしつぐ〜1559-1600年 |
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文禄3年/1594年
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安土桃山時代の武将。その出身は豊後国とも近江国とも言われ定かではない。はじめ豊臣秀吉に小姓として仕え、次第に頭角を現した。天正11(1583)年の賤ヶ岳の戦で戦功を上げ、越前国敦賀城の五万石の大名になった。その後も小田原攻めと、奥州の平定に活躍し、渡海して明軍との和平交渉にも臨んだ。秀吉の死後は、徳川家康の天下統一に協力する姿勢を示したが、旧友石田三成の「打倒・家康」という固い意志を知り、三成に同調した。敦賀で家康方の前田利長の軍を破ってから関ヶ原に向かい、善戦したが、小早川秀秋の軍に攻められて自害した。
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吉継が、草津に訪れたのは、文禄3(1594)年のこと。自身が上杉景勝の老臣に宛てた書面で確認できます。一説では、吉継はハンセン病患者であったと伝えられており、訪問の目的は湯治にあったとか。その史実からも、当時から「草津の湯は病に効く」ということが通説となっていたことがわかります。
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| 前田利家 |
大名・まえだ としいえ〜1538-1599年 |
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慶長3年/1598年
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いわゆる「加賀百万国」の礎を築き、金沢繁栄の祖となった武将。尾張国に生まれ、14歳で信長の近習、19歳の時、顔に矢が刺さったまま敵をやりで倒したという逸話も。秀吉とは武家屋敷住まいの頃から親交が深く、天正9(1581)年、能登国を拝領し国持大名となった。本能寺の変の後、対立した豊臣秀吉と柴田勝家とは親密だったが、勝家に加勢し参戦した賤ヶ岳の戦では、途中で秀吉に降伏。加賀国や越中国の一部を手中に収めて加賀藩の原形をつくり、三女は秀吉の側室、四女は養女になった。五大老の1人として秀吉政権を支え、秀吉の次男秀頼の守り役にもなったが、秀吉没後ぼ翌年、大阪で亡くなった。
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利家が草津で当時をした事実は、戦前までは歴史の中に埋もれていました。慶長3(1598)年、隠居して身軽になった利家は、健康を回復するために、天下の名湯・草津へ向かったのです。その一行には、謡曲師や楽師も含まれており、盛大な来草となりました。「加賀百万石」といわれた前田家の経済力を伝えるエピソートです。
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| 清河八郎 |
尊王攘夷志士・きよかわ はちろう〜1830-1863年 |
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文久元年/1861年
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尊王攘夷志士。出羽国に生まれ、文雅を好み諸国の名士を歓待する家庭に育った。江戸に出て東条一堂や安積艮斎に師事。さまざまな友人を得、近畿や中国、九州に歴遊した。安政元(1854)年、神田で塾を開き、同士たちと虎尾の会を結成して、尊王攘夷を画策した。万延元(1860)年の殺傷事件で追われる身となり、東北から九州まで逃げ回った。文久2(1862)年、島津久光の上洛を機に挙兵しようとしたが、寺屋の変で失敗。横浜の外人居留地の焼き討ちを計画し、見廻組の幕吏により斬殺。「新撰組」の基礎をつくった人物としても知られる。
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清河八郎は、万延元年の殺傷事件で地下に潜伏し、郷里を脱出。越後から草津に出ました。折しも草津は盆であったため、家々では先祖を供養し、それを見た八郎は、郷里の肉親を思い、再び先祖の墓は見られないだろうと、胸がいっぱいになったといいます。その時の故郷を思う心情は、彼の手記「潜中記略」に綴られています。
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| 行基菩薩 |
僧侶・ぎょうきぼさつ〜668-749年 |
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養老5年/721年
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奈良時代の僧。河内国の生まれで、父母は百済系の帰化人の氏族だった。15歳で出家。「瑜伽師地論」「成唯識論」などの教典を学び、たちまち理解し、秀才の誉れが高かった。その呪術的な方法から朝廷の糾弾を招いたこともあったが、各地で灌漑事業を行ううちに朝廷との関係も好転した。天平15(743)年、東大寺の大仏建立のために歓進活動を行い莫大な寄進をしたので、同17(745)年には今まで例のなかった大僧正の位を与えられた。その事跡は「続日本紀」「行基年譜」などに見られる。
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草津の薬師堂を守る光泉寺に、「温泉奇功記」という書物があります。その由来記によると、奈良時代の僧、行基が各地で布教活動を行ううちに山深い草津にいたると、ことごとく霊気にあふれた中でも徳に仁恵の気をふくんでいるとことがありました。行基が祈祷すると、そこから温泉が湧き出したということです。
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| 蓮如上人 |
僧侶・れんにょしょうにん〜1415-1499年 |
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文明4年/1472年
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室町時代の浄土真宗(一向宗)の僧。本願寺中興の祖。父は本願寺第7世の存如で、17歳のときに青蓮院で得度。20歳頃から父の伝道活動を助け、存如が死去すると宗主に就任した。真宗の勢力拡大を積極的に進めたため、延暦寺を刺激。大谷本願寺の破却を招いた。文明3(1471)年、越前国吉崎(福井県金津市)に赴き、ここを拠点として北陸地方へ布教に努めた。本願寺は加賀国の富樫一族との確執から活動の中心を畿内に戻し、京都の山科に本願寺を建立。明応5(1496)年、石山本願寺が完成すると、本山を移した。蓮如の功績は、浄土真宗の開祖・親鸞の説いた他力思想を、民衆にわかりやすく伝え、教えを広めたことによる。
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蓮如は、越前国の吉崎を拠点に北陸地方に布教活動をしていた時分に、東北や関東地方にも足をのばしました。草津に立ち寄ったのは、二度目の東国布教の時。信州の西厳寺の住職、良空に案内され、一月ほど逗留しました。長野県真田町には、草津に向かう途中、蓮如が書いたと伝えられる名号が残されています。
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| 飯尾宗祇 |
連歌師〜いのお そうぎ〜1421-1502年 |
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文亀2年/1502年
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室町時代の連歌師。早くから京都の相国寺で仏道の修行に励んでいたが、30歳前後に仏門を離れ、連歌師を志した。同時に古典、神道、和歌、古今伝授を学び、広く古典学を修めた。京都をはじめ全国各地で、和歌や連歌の会、古典講義を行い、長亨2(1488)年には連歌界で最高の名誉である北野連歌会所奉行に任ぜられた。旅とともに生涯を送り、最後は箱根湯本で没す。伝統的連歌の符号修辞と、風靡の趣を学び、古典的風格の連歌を大成。連歌史に大きな足跡を残した。代表的作品は、句集「下草」、連歌論「吾妻問答」、紀行文「白河紀行」など。
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宗祇が草津に来たのは、旅に生きた生涯を終える約3ヶ月前。文亀2(1502)年のことです。足元もおぼつかなくなってしまった宗祇は、弟子の宗長に連れられて湯治に訪れました、宗長の手記にはその楊子が記されていて、一行は、当時効能豊かな温泉として知られていた草津のほかに、宗祇の願いで伊香保にも逗留。師の体をおもんばかる弟子の、優しい思いが伝わってきます。
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| 小林一茶 |
俳人〜こばやし いっさ〜1763-1827年 |
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文化5年/1808年
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「雀の子 そこのけそこのけ お馬がとおる」など機知に富んだ表現で知られる江戸後期の俳人。生まれは信濃国柏原村(長野県信濃村)。農家の長男として生まれたが、3歳で生母と死別。祖母には愛されたが、後に迎えた継母に冷遇。15歳の時に江戸に奉公へ。俳譜の葛飾派に入門したのは25歳の頃。わずか3年で、葛飾派の総師・溝口素丸の書記役に抜擢された。30歳以降は、関西、四国、九州方面を遊歴し、俳譜修行に励んだ。51歳で郷里に帰住。一旦は生活も安定したが、その後は没するまで不幸が続く。生活派として独自の句風を残す。代表作に「おらが春」
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生活派俳人として有名な一茶は、草津の旅を紀行文「草津道の記」に著しています。その中に、「湯けむりに ふすぼりもせぬ 月の貌」という草津の雅趣を詠んだ句があり、光泉寺・階段下の句碑に刻まれています。一茶は、当時草津で旅籠を営み俳人でもあった黒岩鸞白と親交が深く、その縁あってか、何度か来草しています。
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| 十返舎一九 |
劇作家・十返舎一九〜1765-1831年 |
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文政2年/1819年
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江戸時代の戯作者。十返舎の号は香道における黄熱香の十返しによる。駿河国生まれで、江戸に出て奉行に仕えたが、大阪に移る主君に同行した。在阪中に辞任して、近松東南の門に入り浄瑠璃作者となった。寛政元(1789)
年に上演された「木下蔭狭間合戦」に合作者として参加。寛政5(1793)年、江戸に帰り、山東京伝の知遇を得、京伝の黄表紙の挿絵を描いた。しばらくは黄表紙の世界で生計を立てていたが、亨和2(1802)年に発表した滑稽本「浮世道中膝栗毛」が爆発的な人気を博した。これが後の「東海道中膝栗毛」の初編となり、一九は”膝栗毛”シリーズを死ぬまで書きつづけた。
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劇作者・一九は、文政年間に二度来草。その時の想い出は「上州草津温泉道中・続膝栗毛第十篇」「方言修行善光寺草津温泉道中金草鞋」などの作品に、独特の洒落な文章で描かれています。囲山公園沿いの石碑には「上州草津温泉道中〜」の一節が刻まれています。また、一九の文章からは、「近世・草津の黄金時代」と形容された江戸晩期の賑わいぶりがうかがえます。
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| 清水浜臣 |
医学者・しみず はまおみ〜1776年-1824年 |
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文政2年/1819年
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江戸後期の国学者・歌人・医者。国学を村田春雨に入門して学ぶ。20歳ごろから吉田雨岡らと「文徳実録」など六国史の会読の会を持ち、支所や古典に専念。文献への執着は並々ならぬものがあり、賀茂真淵の自筆稿本は師である春海にさえ使わせなかった。真淵の偉業とその一門の業績を後世に伝える意味で「県門遺稿」の刊行は、大きく評価されている。歌人としても江戸歌壇で確固たる地位を築き、教えを請いに訪れる者は多かった。著書は幅広い分野に及ぶ。
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浜臣は、草津に入湯した時のことを紀行文「上信日記」に著しています。訪れた時は、草津は行楽のピークを過ぎ、浴客は少なかったと味気ない思いで語る彼は、宿で情報を仕入れたのか「5月末から7月には一つの宿に700〜800人泊まる」と記し、この文章からも文化・文政期の草津の繁栄ぶりがうかがえます。また、せっかくの来草でしたが、本人は入浴しなかったようです。
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| 高野長英 |
医師・たかの ちょうえい〜1804年-1850年 |
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天保元年/1830年
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幕末、進歩的な思想を展開した学者。陸奥・水沢の生まれ。幼い頃父と死別し、母方の伯父、医師の高野玄斎の養子になった。17歳になると医学修業のため江戸へ。文政8(1825)年、には長崎に赴き、シーボルトの鳴滝塾で西洋医学と関連諸科学を学んだ。同11(1828)年、11月シーボルト事件が起きると身の危険を感じ、江戸に戻り、町医師に。日本で最初の生理学者「西説医原枢要」を著す。その後、蘭学の大家・渡辺華山に学び、数々の思想書を発表。同10(1839)年に蛮社の獄が起こると、永牢の判決を受けたが、脱獄。各地を転々としながら「兵制全書」などを翻訳した。江戸の隠れ家を追っ手に襲われ、嘉永3(1850)年、自害した。
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長英と群馬県は深い関係にあり、数多くの門人と交遊がありましたが、「いつ草津に訪れたか」を示す資料は少なく、白根へ登る途中の
”毒水沢”の言い伝えのみが、長英と草津のつながりを物語っています。それは、「彼が立ち寄った際に沢の水を分析し、毒が含まれていたので『この水飲むべからず』と碑に刻んで、旅人の危害を防いだ」というものです。
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| 安積艮斎 |
儒学者・あさか ごんさい〜1791年-1861年 |
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天保9年/1838年
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江戸時代の儒学者。陸奥・郡山の生まれ。神職の家の3男であることから婿に出されたが、文化4(1807)年、志学し、江戸へ出奔。佐藤一斎に学んだ。林述斎の塾にも入門し、翌年、私塾を開いた。天保3(1832)年に「艮斎文略」を出版してから名声が上がり、郷里の二本松藩の藩学教授を経て、嘉永3(1850)年、幕府の学問所付儒者に任ぜられた。ペリー来航の際には国書(漢文)の和訳にも関わった。艮斎の名は、彼の巧みな文章力とともに知られ、著書には上記の他「艮斎閑話」などがある。
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艮斎が草津を訪れたのは、天保9(1838)年5月のこと。白根山に登り、「登白根山記」を記しました。文中には、火薬に使われた言おうの採掘の様子が描かれており、艮斎は白根山の硫黄を「深黄なることやまぶきのごときは絶品なり」と評しました。白根の硫黄は火薬向きで、後に訪れた佐久間象山も激賞したそうです。
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| 田川鳳郎 |
俳人・たがわ ほうろう〜1762年-1845年 |
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天保11年/1840年
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江戸時代の俳人。肥後国に生まれ、早くから俳句の道を志し、郷土の武久綺石に学ぶ。その後、江戸に出て、鈴木道彦の門弟になった。当時の俳譜は「床屋俳譜」と称されるほど、史上空前の普及ぶりで、次第に頭角を現した鳳郎は、桜井梅室らとともに「天保の三宗匠」に数えられた。絵画にも秀で、肥後藩主・細川重賢は、彼の多才ぶりを高く評価した1人。編著に「芭蕉葉ふね」「蕉門俳譜師説録」「自然堂千句」などがある。
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草津には坂上治右衛門をはじめ、鳳郎の門弟が数多く、古くから交友が続いていました。鳳郎来草の詳細は明らかになっていませんが、草津への思いは深く、「萬代の つゆの柱が しら根山」などの好句を遠き江戸の地で詠んでいます。また、白根神者境内の芭蕉句碑は、彼の門下生が建てたもの。碑の裏には、敬愛した師の撰文が刻まれています。
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| 佐久間 象山 |
思想家・さくま しょうざん〜1811年-1864年 |
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嘉永元年/1848年
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いち早く開国の必要性を唱えた幕末の思想家。科学者でもある。信濃国・松代藩主の子として生まれ、儒学や和算を学ぶ。天保4(1833)年、江戸の佐藤一斎に入門。いったん帰郷するが、同10(1839)年、再び江戸に出て神田に私塾を開く。藩主の真田幸貫が老中を務めた折り、顧問に推挙され、「海防八策」を提出するほか、オランダ語を学ぶなど洋学の研究・実践に努めた。安政4(1857)年、同門の吉田松陰の密航計画に手を貸したことが発覚し、国元で蟄居の身に。その後、幕命を受けて上洛。公武合体、開国を説いて皇族、公家の間を奔走したが、元治元(1864)年、京都において、刺客の手にかかり暗殺された。
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草津へ訪れたのは物見遊山ではなく、調査のため。科学者・佐久間象山らしい来草目的です。藩命を受け、草津周辺を探索した象山は、「全国有数」と言われた白根山の硫黄を視察。黒色火薬の原料として高く評価しました。また、当時の草津山中は行き来がままならず、紀行文には象山の苦心ぶりが記されています。
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| 藤田東湖 |
水戸学者・ふじた とうこ〜1806年-1855年 |
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嘉永6年/1853年
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強烈な尊王攘夷思想により、諸藩に大きな影響を与えた後期水戸学の、大成者の一人。父は後期水戸学の重鎮・藤田幽谷。文政12(1829)年、徳川斉昭を水戸藩主継嗣ぐに擁立する運動を推進。斉昭が藩主に就任した後は藩の出世頭となり、天保11(1840)年、側用人を拝命。戸田忠太夫とともに水戸藩・天保改革派の中心人物となった。しかし、弘化元(1844)年に斉昭が隠居謹慎に処せられると免職。禄も剥奪され、幽閉、居宅謹慎の身に。処分解除は嘉永5(1852)年まで待たれた。斉昭が幕政に復帰すると、側用人に復職。翌年、安政大地震により江戸藩邸で圧死した。著書に「弘道館記述義」「常陸帯」など。
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藤田東湖が草津を訪れたのは、友人が湯浴みに来ていることを知り、彼の後を追ってきたからだと伝えられています。東湖来草の詳細は長く不明でしたが、草津や榛名を詠んだ手記が発見され、明らかになりました。文面には詩のほかに、押韻のメモ書きなども記されており、草津の風景を前に、頭をひねり推敵する大学者・東湖の姿が目に浮かんできます。
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| 堀 秀成 |
国語学者・ほり ひでなり〜1819年-1887年 |
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慶応元年/1865年
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国語学、特に漢字の”音”に関する分野を広く修めた学者。下総国・古河に生まれ、武士としての教育を受け、山鹿流の兵法を学ぶ。しかし、天保12(1841)年、国学を志し専念。諸家に学んだ後、富樫廣蔭に師事した。各地で講義をして歩き、明治3(1870)年、少博士に任ぜられた。同5(1872)年に御前で進講してからは、皇太神官禰宜、学習院語学教示、伊勢の神宮教院の教授などを歴任した。著書に「助辞本義考」「音韻大全」「音義本末考」「言霊妙用論」「音韻略説」「語法本義論」などがある。
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秀成は、慶応元年に「草津繁昌記」という本を著しています。内容は、「湯宿」「問所」「湯室」「茶屋」「商人」「おあまり」「薬師堂」「つぼまはり男」「貸本屋」「道具屋」「髪結」「夜店」「立振舞」「広小路」の14章に分かれていて、当時の賑わいの様子が精細に記されています。幕末の草津を描いた貴重な資料です。
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